Snap Shot 16

「まずたしからしさの世界をすてろ」
何度口に出し、何度書いてきた言葉だろう…。
実際に『PROVOKE』を見たわけではなく、この言葉に出会うのは、発表されてから数年後のことだ。76年か77年に初めて『なぜ植物図鑑か』を読み、中平卓馬を知り、映像論にのめり込んだ。そこから、アラン・ロブ・グリエやル・クレジオやロラン・バルトへと広がった。
1993年発行の『Deja-vu』14号の飯沢耕太郎との対談で、多木浩二の発案であるとして、中平卓馬自身はこの言葉を否定している。ただし、中平の記憶が正しいかどうかは…。森山大道が「真実」をどこかに書いているかも知れないが、記憶にない。
いずれにせよ、プロウ゛ォーク解体へ向かって発されたこの言葉は、彼等が込めた意味とは無関係に、僕自身が考えていた「世界とのせめぎ合い方」へ向かう言葉として、今日まで使い続けてきた。その捉え方を勝手な「解釈でしかない」と言われれば、甘んじて認めざるを得ないのだが…。
僕にとっての「まずたしからしさの世界をすてろ」とは、制度、国家、市民社会、資本主義等々が振り撒く「幻想」の廃棄と、既成概念、常識、流行等々の持つ「強迫観念」への疑義を端的に表現する言葉として在る。

「世界は常に私のイメージの向う側に、世界は世界として立ち現れる、その無限の〈出会い〉のプロセスが従来のわれわれの芸術行為にとって代わらなければならないだろう。世界は決定的にあるがままの世界であること、彼岸は決定的に彼岸であること、その分水嶺を今度という今度は絶対的に仕切っていくこと、それがわれわれの芸術的試みになるだろう。」
この一撃で、総てが変ったのだった。
ここしばらく、そんなことなどすっかり忘れていたのだが、再びカメラを持ち歩くようになったところへ、中平卓馬写真展開幕のニュースを知った。『アサヒカメラ』で最新作を見た。ちんたら、「ちょろスナ」してる場合じゃない!
勿論、4月には、松江まで森山大道“光の狩人”展を見に行って、大いなる刺激を受けたとともに、フラッシュバックの伏線はそこにあるのだ。

_2003.9.30