Snap Shot 20

このところ毎日、自宅周辺を2時間ほど歩き回って512MBのコンパクトフラッシュをほぼ満タンにしています。
大学生の頃、なけなしのお金でトライXの長尺を毎月1巻使っていたのを思い出しますが、あの頃、それでも「幻の名作」をかなり作っていました…。
行きつ戻りつしながら、帰宅するとMacに取り込んで、抽出したJPEG画像をiPhotoで、まるでコンタクトを見るようにみています。気になるカットは、RAWデータを現像して、細部までチェックしますが、「本焼」は後のお楽しみ♪モノクロで行くか、カラーで行くか、というような基本的なことさえも、あとのお楽しみです♪
何とかEOS10Dでの作業に、眼も頭も体も着いてきたな、という感じですが、それぞれのレンズの画角もパースペクティブも、ほとんど把握できていません。ファインダーを覗いてみないと分からないのは、しばしば不便で不愉快です。
森山大道の写真で有名な十三に隣接するこの辺り、こうして毎日のようにうろついてみると、ウソのように被写体となるべきものが溢れています。
神崎川に架かる橋を渡ると、豊中市や吹田市となり、それぞれ町の佇まいも変化します。

「君の潜在意識が眠り込んでいるから、世界が無意味に思えるのだ。」
(コリン・ウィルソン)
と、一喝され、やっと眼が覚めたようです。
どこかへ行きたい、遠くへ行きたい、ココデハナイドコカへ、という思いは霧散しました。
灯台下暗し、というよりは、己の存在に気が付いたと言うべきでしょう。

「もしポエジーが、詩が生まれるとするならば、この私の視線と事物の視線とのまったき非和解性、その敵対性に目をつぶり、私の〈気分〉によって事物の輪郭をぼやかす時にしかありえない。それは明らかに私の〈思い上がり〉であり、と同時に、私の〈眼の怠惰〉だ。眼はすでに制度化された意味をひきずったまま、意味の確認をしか世界に求めようとしない。眼は外界へ通じる透明な窓ではなく、世界から私を遮断するシェルターに変わる。世界は私の逆送された投影である。」
(『なぜ、植物図鑑か』)

_2003.10.20