Snap Shot 22

ちょっと長い引用。

●撮られ方の歴史
 ビルの屋上にあがるだけでも体がふるえだすという高所恐怖症のカメラマンでも、ファインダーごしに下を見おろすと、ちっともこわくない、という話をきいたことがある。
 対人赤面恐怖症の男が、カメラのファインダーごしなら、相手の顔を正視できる、という体験談をきいたこともある。
 どうやら、カメラのファインダーというやつは、現実を「もう一つのべつの現実」に変えてしまう不思議な力を持っているらしい。
 私も近頃、写真を撮るようになって、ファインダーの中の現実に興味を持つようになって、次第に世界をトリミングしたり、魚眼で見たり、望遠したりするようになった。だが、こうして撮る側を中心にして写真を考えることは、いつのまにか孤立した個人の内部へ世界を封じこめてしまう退行感覚を意味しているのではあるまいか。
 多くの映像論、表現論、ドキュメンタリー論は「撮る」側の立場から写真を考えたものだが、写真には撮り方の歴史と同じ長さの分の「撮られ方の歴史」もあったのである。
 写真館の書割りの富士山の前でふんぞり返っていた田舎紳士の髭の祖父から、緑陰でポーズをとってにっこり笑った少女まで、つねに「撮られる」側が写真の半分を創ってきたのであり、その相互の緊張関係ぬきでは写真を語ることができない。文学史が読者史をネグレクトし、音楽史が聴衆史をネグレクトしているあいだは、文学も音楽も送り手の一方的な独白で終ってしまう。表現というものはつねに、一つの関係としてのみ生成されるものだということを、一枚の母親の写真を撮りながら考えたのであった。
『地平線のパトロール』寺山修司
_三分間の思想●三十章/【28】

一億総カメラマン時代などと言われた70年代以上に、デジタルカメラやカメラ付き携帯電話の普及で、「総カメラマン時代」が現実のものとなっています。
以前には少なかった、セルフ・ポートレート=自分撮りモードやプリクラの出現によって、撮る側と撮られる側が混在、或いは、溶解しています。
高度資本主義、或いは、グローバリゼーションは、「リテラシー」の崩壊を押し進める一方で、職人技を排除していることと、このフュージョン化は対応しているようにも見えます。
ある調査によれば、デジタルカメラやカメラ付き携帯の最大の特徴として出されたことは、「イヤならすぐ消せる」ことだったらしい。
病理学的意味はさておき、「写る」ことが当たり前になった今、ゲームと同じように簡単に何でもリスタート、或いは、なかったことにできる時代の歴史とは、いったい何だろう…。

_2003.11.02