Snap Shot 26

アサヒカメラ10月号「あえて望んだ斬新熟視」に衝撃を受けてからほぼ2ヶ月。昼間1〜2時間はカメラを持って徘徊、夜は『植物図鑑』その他を読みあさる今日この頃。

先にぼくは制御された視角と書いた。それは本来現実へ向かうはずのわれわれの視線を現実ならぬ架空の地点へ捻じ曲げ、しかもそれが現実であるかのような幻影をけっして失わせないように制度的に形成される視角である。われわれに与えられるあらゆる視角はすでにそのようなものとしてある。それはおそらくエンツェンスベルガーの云う「意識産業」の機能とも、そしてそれを最終的に操作する国家の存在ともきりはなしては考えられないだろう。
だがさしあたってそれら制度的な視角がもたらす具体的な効果は、巧妙にかつ決定的にわれわれから次第に現実感覚を奪いつつあるということである。現実のイメージは正確に現実の喪失のうめあわせとしてある。
(「制度としての視角からの逸脱は可能か」1972.2)

中平卓馬がこう書いた時と、状況はあまり変わりません。むしろ好ましからざる方向へ加速しているように見えます。新しいメディアであるはずのインターネットも、産業化かつ独占される一方です。「制度としての視角からの逸脱」は不可能なのかも知れません。それについて考えることさえも…。

_2003.11.17