Snap Shot 31

遂に自衛隊のイラク派兵が決まった。
一度決めたことは、ことの是非に関係に無く意固地に通そうとするところなど、「改革」の二文字が聞いて呆れる。従来からのダム建設や道路建設と同じで、状況の変化も国民の意見もお構いなしだ。
日本の「国益」を確保するがために、他国の民の命を奪うことが果たして許されるのか…。それでも、北朝鮮の体制を非難することが可能なのか…。
「軍隊の無い」日本、キリスト教国ではない日本にしかできないことがあるはずだ。
長期間アメリカに駐留された日本、沖縄を売った日本にしか分からないことがあるはずだ。
自衛隊の内容、派兵の意図など問題ではないのだ。
彼等は、まぎれもなく日本国の国軍であり、米軍の同盟軍である。
小泉首相が繰り返す「テロに屈しない」という呪文は、裏を返せば、「敵を殺しに行く」ということだ。テロに対するには、暴力をもって望むということだ。
ピースウィング・ジャパンをはじめ、日本の数々のNPOがイラクでもアフガニスタンでも活動している。自衛隊員の生命より、彼等のような民間人(日本国民)の安全こそに配慮をはらうべきであり、首都でのテロより、援助活動の現場の安全こそが守られるべきだろう。
60、70年代の安保闘争やベ平連の運動等々が、すでにこの国の歴史から抹殺されている。沖縄は「返還」された。ソ連は崩壊した。
湾岸戦争時、戦闘機からの爆撃映像は、我々に、戦争をゲームのように見せた。
「イラク戦争」時、従軍マスコミは、「正義」の映像を大量に垂れ流したのは、記憶に新しい。
我々は、それが「現実」の総てであると信じてはいないか…。

「ここからおそらく次の事実がひき出されるだろう。一つは、映像がそれを見るわれわれの意識の方向を規制するそのマニピュレイション効果であり、それは無意識に直接働きかけることから始まり、最終的にはわれわれ一人一人の意識、さらにはモラルまでをも方向づけうるという驚異的な事実であり、もう一つは映像がたんにそれが写しとる現実の意味によって成立するのではなく、それ自体独立して一つの意味の記念碑的礼拝物に転化しているという事実である。『セットされた現実』はここではその範囲をはるかに超えて、新しいみずからの意味をもったもう一つの現実に仕立てあげられてゆくのである。そして重大なことはその時、これらの映像はあくまでも実際に起こりつつあることの記録であるという送り手受け手双方の暗黙裡の共同の幻想がそれを初めて可能にするということである。」
(「記録という幻影」中平卓馬/『なぜ植物図鑑か』所収)

_2003.12.9