視的生活
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江坂

東三国

梅田

昨年の日本カメラ11月号の香山リカ氏の連載の中に、ある週刊誌の記事から、なぜデジタルカメラで撮るのかについての話題がありました。
いつでもどこでも手軽に撮れる、が、一番の理由だと思ってましたが、実際には、「イヤならすぐ消せる」が最大の理由だったそうです。
イメージ通りでないと気に入らないから、すぐに消去してしまう。ということは、現実に目を背けることに通じます。中流意識のなせる技か、ブルジョワ化が進んだのかはさておき、肖像画を描かせる貴婦人や豪商のようにも思えます。
逆に、「いつでもどこでも」が“デジタル万引き”を生んでしまったのも事実ですが…。
写真映りがいいとか悪いとかという次元、或いは、単に便利だからという次元から、写真は記録か芸術か?、という次元まで、広範で深い問題を含んでいると思われます。
テレビCFなどでも、「思い出作り」なる言葉が横行してします。
思い出は、作るものではなく、できる(できてしまう)ものだと思っていましたが、「良い」思い出を作るために、クルマを買ったり旅行に出かけたりするわけですね。そこでアクシデントなんかに出会うと、思わず取り消したくなるわけですが、そうは問屋が…。
写真の醍醐味には、「写ってしまう」ことと、「瞬間での完結」があります。
そして、それこそが写真の最大の特徴でしょう。
シャッターを切った瞬間に完成することと、シャッターを切ってしまった自己との永遠の矛盾の内包こそが、写真の唯一のレゾン・デートルかも知れません。
デジタル化と共に、写真の中により容易に「嘘」や「作り事」が紛れ込むようになりました。天気を変えたりゴミを消したり、はたまた失敗を誤摩化したり…。キャプションや編集による意味の「捏造」ではなく、現実の「改竄」がいとも簡単に出来てしまいます。その上、都合の悪いことを隠すのではなく、永久に消してしまいます。
無批判的な写真の取捨は、現実との乖離をますます助長する危険を孕んでいると感じます。
西井一夫は、「網膜的思考」を批判しました。
私たちは、「ここにある写真」を更にもう一度、脳へと戻す必要があるのではないでしょうか。

_2004.2.26