視的生活
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西中島

三国本町

西三国

2月から4月末まで、ほぼ毎日、大量のシャッターを切った。
EOS10Dをプログラムモードで撮っていると、ほとんどが「きっちり」写っている。すべて RAWモードで撮っているのだから、十分にラチチュード内に収まっている。一日あたり100から150カット、多い日は200カットを超える。「コンタクト」を見ると何時ごろどこで撮ったかは覚えているが、その「処理」が追いつかない。
かつて、アサヒ・ペンタックスとトライXで撮り歩いていた頃から、撮影40%に暗室60%ぐらい、場合によっては暗室作業への比率が80%を超えていたかも知れないような感覚で写真していたと思う。
肉眼で出逢い、ファインダーで出逢い、持ち帰ったフィルムを引伸し機にかけて、もう一度出逢うのがお決まりの作業だった。その「マルチ・プロセス」が、主観と客観、記録と表現を止揚する必須の作業であるし、楽しみであり醍醐味である、という考えは、デジタルカメラ以外は使わなくなった今も変わらない。
現像・プリント作業を経てはじめて、写真作業は完結する。
フィルムがRAWデータに変わっても、写真であることの本質は変わらない。
様々な理由から、5月に入ってからはあまり写真していない。が、その分といえるかどうか、思考が追い付いてきたようには思える。眼とカメラと脳が直結してきたというか、並列したというか、「一体感」のようなもの。
貯まった1万カットあまりの「半」写真にもう一度出逢う旅に出なければいけない。見ることを経験しなくてはいけない。感覚の屑を拾い集めて、体験しなくてはいけない。
そして今また、写真=生であることを再確認しているところである。

_2004.5.28