視的生活
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「現代的大都市とは、歴史的な連続体に対して、『アッチを切り取り、コッチを毀し』ながら進んでいる『人工的な解体工事の集合体』だから、裂け目で成り立っているものであって、ここで産まれる、芸術は、その裂け目の切り口を眼光鋭く現場感覚をもって表現しなければならない(江戸時代の俳諧の如く)。[藤田省三著作集9『「写真と社会」小史』まえがき/みすず書房]

初出は、83〜84年にかけての『カメラ毎日』に掲載された、アジェとアーバスの写真に関する論考がまとめられている。
藤田省三というと、大学に入った直後、『天皇制国家の支配原理』を読んだきりで、その政治学者が写真について語っていることを知ったのは、昨年読んだ西井一夫の本からである。
そろそろもう一度、アノ本を読み直したいと思っていた矢先のことだ。
雑誌『カメラ毎日』は、数年前まではかなりの数のバックナンバーを保存し、終刊号(84.5月号)も持っていたが、これらの号を見た記憶がない。
写真雑誌のフリをしたカメラ「業界」雑誌しかないような日本で、売上げも採算も無視したような西井一夫が仕掛けた、挑戦であり冒険であり挑発であった。

「確かに写真が意味をもった時代は終わったけれども、その代わりに、自然・心・地域・過疎地帯などの『裂け目』が現代的認識領域の中心となっている。」[同上]

西井一夫の「なぜ未だ『プロウ゛ォーク』か」と同様の認識である。

デジタルvs.アナログ、フォトグラフィvs.デジグラフィ?の評価や差異よりも、カメラによって何を見るか、薄っぺらな写真の中に何が見えるか、を、コトの中心としたい。

_2004.9.12