視的生活
-073-
豊中

東三国

西三国

吹田

大事件、として記憶されるような出来事が次から次に起きている。
個別についての思考や総括はもちろん、物語は拒否され続け、断片化した「ニュース」のみが飛び交っている。自然災害しかり、政治しかり、国際関係しかり、日常生活しかり、…。
内原恭彦氏の「見るまえに撮れ」という姿勢からしか、世界を捉えるのは困難になっているのかも知れない。
見て、考えていては、ますます遅れるばかりである。
「本日、只今」がリアリズムである、と言えたのが、牧歌的に思えるほどに、CPUの演算能力に比例するように、地球の速度が上がっているようだ。
場当たり主義であろうがなんであろうが、目に入ってくる瞬間にシャッターを切ることぐらいしか、ワタシの世界の可能性は残されてはいない。
などど言ってはみても、歴史を総括したがる性癖を持つ者としては、桜の下で、解体現場で、野良猫の視線の先で、大した意味もない断片的な思考を繰り返すのが止まらない。開き直りもできず、開拓も能わず。
もうじき、五十歳。

_2005.4.26

こんなことを考えている頃、JR西日本が、死者100名を超える大事故を起こした。
次から次に出てくる大企業の問題点は、今のこの国の市民社会のミニチュアだ。
一部のBloggerの人たちの言説を待つまでもなく、事故から十日あまりを経たいま、マスコミが垂れ流す「情報」には、二重の意味で「またか」という印象を持たざるを得ない。一企業や一個人が抱える問題をクローズアップすることで、「社会全体」の罪を隠ぺいしようとする意図があるのではないか、と勘ぐりたくなる。一分一秒の誤差、一円の利益を最優先してきたのは「私」であり、経済中心の仕組みを支えてきたのは「我々」だ。

犠牲者の方々のご冥福をお祈りするとともに、負傷された方々、乗車されていた方々の早期回復を願っています。

_2005.5.7