観念奔逸的写真論 -2-

2001
jan.9

20世紀が終わる3日前に、待ちに待ったキャノン製300万画素デジタル1眼レフ、Eos-D30を入手。軽いわりにはグリップ部分がEos1より大きくて少し驚いた。
操作系はEos1とほぼ同じ、カメラ操作自体には戸惑いはない。が、ワークフローはまるで変わってしまうのだろう。とりあえずは、テスト撮影用。今までの、いかにも環境にも人体にも悪そうな、ポラロイドとかフォトラマを使わずに、少々重く、更に荷物は増えることになるが、Powerbookを持てば、より厳密な「テスト」ができそう。

9年前、Quadra950にフォトショップを入れて、デスクトップ・ダークルームが実現した時から、「デジタルは手間がかかる」と、「デジタルは限界を超える」の間を行ったり来たりしてきた。
それが今度は、いよいよフィルムレスとなる。
評判の“RAW”モードで撮影したデータを1カットずつ、自分の手で処理しなければ“現像”済画像は手に入らない。まるで、昔やっていたモノクロ現像やプリント作業のような「自分でする行程」が必須。ラボに渡して、チーン、とはいかなくなる。スキャニングの手間を省くか、“現像・プリント”の手間をかけるか?
究極の選択に近いな、これは。
でも、なんだか楽しいぞ。

デジタルカメラはフィルムを使わない、ということは、実はどこにも“実体”がない、ということである。“原板”、“オリジナル”はどこへ行った。
160年前、ダゲールやタルボットが「カメラ・オブスキュラ」を「発見」してまもなく、乾板やフィルムや印画紙が創りだされて以来の「革命」である。
“オリジナル”は作者のモニタの上にしかない。まるで、「カメラ・オブスキュラ」の中に映しだされた映像を、印画紙やその他の媒体に定着する手段がなかった時代への逆戻りにも思える。「原点回帰」である。
「平面の地球」から「球体の地球」へと認識が変わった時、天皇が神であることを止めた時、あらゆる発想が再考を促されたように、“オリジナル”の威厳をはぎ取られた写真は、「写真術」勃興時代と同じような発想の転換を迫られている、ようだ。ヴァルター・ベンヤミンいうところの「アウラ」は、一体どこからどこへ行ってしまうのだろう。

「グーテンベルク」に並び称される今回の「IT革命」は、政財界が考えるような薄っぺらな技術や経済効果の問題ではなく、私達の意識を根源から打ち壊すほどの、誇張でも事大主義でもなく、まさに「革命」と呼ぶべきものではないだろうか。マルクスがヘーゲルを転倒したように、我々はこの160年を転倒する時期にさしかかっているのかも知れない。